人事お役立ち

歴史上の人物に学ぶ、採用の極意シリーズPART8 前田利家 編

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織田信長や豊臣秀吉、徳川家康など名だたる武将と同じ時代に生き、戦国の覇者となる素質を持ちつつも独自の処世術を展開しながら生きた前田利家。彼の思想とはどのようなものだったのでしょうか。その人生を紐解いてみると、採用において参考にできるような要素が見えてきそうです。

決してトップをねらわなかったリーダー

前田利家が生まれたのは、戦国時代の後期にあたる1538年のこと。若い頃は織田信長に小姓として従事し、「槍の又左」として敵将に恐れられた槍の名手でした。また、のちに出世してからは徳川家康と並ぶ五大老の一人として豊臣家に仕え、加賀百万石の礎を築くなど輝かしい業績を上げたのも有名な話です。

こうしたエピソードを見ると、信長や秀吉と戦国の覇者を争っていてもおかしくないように思える利家。しかし、彼が覇王として武将のトップに上り詰めようとすることは決してありませんでした。そこには、一体どのような理由があったのでしょうか。

許しを得るために、2度にわたって出陣する

利家のこうした処世感を表していると語られるのが「笄斬り」と呼ばれる事件です。当時信長の家臣であった利家は、自分の笄(こうがい:髪をかきあげる道具)を盗んだとして、同じ家臣であった拾阿弥という若者を斬ってしまいます。

この事件の背景には、拾阿弥が笄を盗んだだけではなく、三角関係のもつれといった別の理由もあったとされていますが、家臣が別の家臣を切り捨てるという事件に信長は当然のごとく激怒。利家に対して出仕停止という処分を下しました。
出仕停止とは、現代でいうと会社を解雇されるようなもの。浪人同然の暮らしを余儀なくされるほど重い処分です。

これに驚いた利家は、桶狭間の戦いと森部の戦いの2回にわたり、信長に無断で出陣して敵将を倒す功績を挙げ信長の許しを請います。このようにいうと簡単に聞こえますが、一度出仕停止になったのに出陣するとは、一度解雇された会社に無給で働きにいくようなもの。さらに、戦に赴けば命までかかってくるとなれば、利家の覚悟のほどがうかがえるのではないでしょうか。こうして、勘当されてもなお忠誠を誓い奉公する姿に信長も態度を緩め、織田家に戻ることを許したといいます。

人の不遇を知る男

織田家を勘当されたにも関わらず利家が2度にわたって許しを請うた理由は、彼自身が信長という主君に惚れ込んでいたからだといわれています。このため、利家は決して信長を越えようとはせず、2番手以下の地位にとどまっていました。信長という天才に勝てないことをよく理解しており、自分の資質をわきまえ、そのなかでできることを全力で成し遂げようとしていたからこその処世術だといえるでしょう。

また、出仕停止になった利家が戦に出られたのは、同じく信長の家臣であった柴田勝家の助けがあったからだともいわれています。利家はのちに「人間は不遇になったとき、はじめて友情のなんたるかを知るものだ」という言葉を残しており、浪人となった自分に手を差し伸べてくれた勝家や、再度取り上げてくれた信長に感謝する気持ちを持っていました。こうしたエピソードからも、利家の忠誠心の高さがうかがえるのではないでしょうか。

「無類の律義者」と呼ばれた利家

出仕停止という厳しい処罰を受けていたにもかかわらず、主君の信用を取り戻すために全力で戦場を駆け抜けた利家。その人柄は、秀吉に「無類の律義者」と呼ばれたことにもよく現れています。採用活動の際にも利家のような、会社のために汗をかいてくれる忠義ものを見抜く目を養っていきたいものですね。

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